「ひとしずく」ーーひと昔編
昨日、脚の腱を切って手術をした息子(長男)のお見舞いに行ってきました。ちょうど体のあちこちに取り付けられていた管が外されたところで、彼は車椅子で廊下を移動中でした。手術後の二日間は体を固定するため、ベルトで締め付けられていたそうです。
私たちは談話室に行き、そこでゆっくり話をすることができました。そこで息子はこんなことを分け合ってくれました。
「これは僕にとって良いことだったんだ。人は皆、 時々現場から離れて静まる時が必要だから」
彼は四人の子供を抱え、仕事は学校で英語の教師をしています。 家庭でも仕事でもいつも子供たちに囲まれた生活をしているので、恐らく、彼の生活には、こんなふうに怪我をしたり病気になったりしない限 り、一人で静まり休まる時間もあまり取れないのではないかと思います。
私は今ちょうど、「パーソナル・リトリート」という主題についての資料を読んでいたところで、その中から思い出した次の箇所を、息子に分け合いました。
リトリートを勧めているある教師が、そのために必要な三つの事をするよう、言っています。
* よく休息すること
* よく聴くこと
* 何もしようとしないこと
私たちは忙しくしている事に、あまりにも慣れすぎているところがあると思います。神様はこんな自分をどう見ておられるかなど、気にしたり考えたりすることもなく、また神に導きを求めることさえせずに、慌しい日常に流されているのです。この現代社会の中で、今、目の前にある林の一本一本の木から少し離れて、森全体を眺めるという余裕はなかなか持てないのが現状でしょう。
神様はこのような私たちに同情し、私たちが日常生活から、しばし離れ、静かに神との対話 をできるような時間を与えたいと思われているのだと思います。そして私たちが自分の背負っている重荷を下ろし、神様に委ね、もっと神様の視点から物事を見 るよう教えようとしておられるのではないでしょうか。
少し痛い経験ですが、神様は確かに息子を愛してくださり、今、御自分の胸に抱き寄せて、優しく語りかけてくださっているのだと思います。感謝です。
息子が生活のことを心配せず、今は、「しばらく休むがよい」と言っておられる主の御腕の内に安らぐ事ができるよう祈りたいと思います。
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わた したちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われ る。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。(ヘブル十二章十~十一節)
するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。(マルコ六章三一節)